白樺王子の愛するブログ

ほんとうのしあわせのために

再開します

再開します

 


またこの時期が来ました。無性に文章が書きたくなる時期です。

思ったことを文章に残すというのは、後世への貴重な資料となると思い、また書き始めることにしました。本当はもう辞めるつもりでしたが、自動更新されちゃっって何もしないともったいないというのが本音ですが。。。

昭和のお爺さんのような記事ですが、一応まだ40代前半です。思ったこと、淡々と綴っていこうと思っております。見ていただいた方、ありがとうございます。感謝申し上げます。

今日は僕のカメラに対する思いについて書こうと思います。

高いカメラは何が良いのか?


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デジタルのカメラを購入する時によく良いカメラとして比較対象にされるのが画素数です。高画素なほど良いカメラ、それと連射速度とかオートフォーカスの速さとか認識性能とかですかね。

日本のカメラメーカーはとにかく数字が大好きです。よく5000万画素なんて数字を耳にしますが、実はこの画素数なんて言葉は僕にはあまり関係がありません。

デジタルカメラっていうのはレンズを通して集めた光を光学センサーに取り込んで、発生した電気信号を画像処理エンジン(電気信号を画像ファイルに変換する)でパソコンが画像と認識できるファイルのデータに変換することができるいわゆる画像処理専用コンピューターなんですね。

なので、スマホなんて軽くて持ち運び便利で性能もそこそこ上がって来ているので、別にカメラの形をしてなくってもデジタルカメラになってしまうわけなんです。

では、なぜ高いカメラにお金を出してまで愛し続ける人がいるのか?

出てくる絵が美しいからです。

別に何か特別なことがあるわけではないです。ただ美しい。これ一言。

快調

 


僕がそのカメラの性能として一番に重要視しているところです。美しいと感じる部分は人それぞれだと思います。好みがありますからね。ただ僕が一番に美しいと感じる写真には必ず光の輝きの美しさの要素が入って来ます。

木々を写した時に、木の葉一枚一枚に光の反射が感じられると、写真全体が光沢感を帯びて来ます。

これを再現するには光の明るさをかなり細かく解析する必要があるんです。例えば光の強さが100段階しか再現できないカメラと1億段階の表現力をもつカメラとどちらが光を綺麗に再現できるかと言われれば、後者としか言いようがないでしょう。

この快調表現というのはセンサーが細かく光を認識できないと後の処理でこの信号はどの段階?と判断することが難しくなって来ます。つまりいかにセンサーまで光を減衰させずに届けることができるか、そしてそれを実現するにはとても透明性の高いレンズが必要なんですね。処理する段階で『多分これくらい?』と『バッチリここ』とではのちの処理の負担が全然違うし、こういうところが値段の所以なんです。

僕が使っているライカというカメラはこの表現力が飛び抜けて抜群なんです。いろんなカメラを使ってたどり着きました。お値段も抜群ですがね。

このメーカーは光学のノウハウはもちろんですが、僕が思っているのは、数字ではなく美しいか美しくないか?をモットーに掲げているところが違うのだと思います。美しいを実現するためだったら、コスト度外視でそれを実現させに行きますからね。

なのでついていくファンが絶えないのでしょう。

このカメラは空気すらも写すと言われています。本当にその通りの表現力で、大きなモニターでスマホの写真と見比べるとすぐに違いがわかります。本当にその場にものがあるような錯覚を覚える時もあります。

人生を豊かにする

 


写真というのは人生を豊かにするツールの一つだと思っています。スマホという便利ツールが浸透して来ましたので、写真の楽しみ方も増えて来ました。暇なときに自分が撮りためた写真を見返したりしてても楽しいですよね。そんな時に美しいと感じられる写真が自分のスマホの中にたくさん入っていたらハッピーじゃないですか?

僕はこの時間がとても好きなので、高いカメラにも手が伸びてしまうのです。最近は高性能化カメラが付いているスマホに興味津々です。

人はいいことも悪いことも起こります。どちらにしても忘れるということは現代の人々には必要不可欠な作業ではないでしょうか。

僕はこういう安らぎの時間というのはこの忘れるという作業をしている時間なんだと思っています。日々、何かわだかまりがあるわけでもないのですが、みんな好きなことに没頭したいのは、わだかまる心を解放したいという思いから生まれることなんだと思います。

美しい写真や動画、これらは必ず人生を豊かにします。